家事育児を時給に換算すると……その考え方は危険!?家族プロジェクトのあり方について
家事や育児にかかる労力を時給換算すると一体いくらになるのだろう。
終わりのない家事育児に奮闘する中で、誰もが一度は漠然と考えることがあるのではないでしょうか。
女性の活躍に関する意識調査2020年の結果では、「毎日の家事や地域社会での貢献を時給に換算するといくらになると思うか」という質問調査において、未就学児の育児・世話に対しては1,673円、日常の家事に対しては1,030円~1,184円という結果が出ています。
この数字を見て、あなたは何を思うでしょうか。
「本当ならこれだけのお金がもらえるはずだ」と憤りを感じるでしょうか。もしくは、これだけの対価が支払われるべきなのに無償で働いていることに虚しさを感じるでしょうか。
家事育児の時給換算は無意味?

筆者としては、家事育児に対する時給換算の額を考えることは、とても無意味なことだと感じます。
家事育児を時給換算することの動機は「これだけの労働を、無償でしていることへもっと敬意を払うべき」「もっと母親や女性の頑張りを認めるべき」という主張です。
確かに、乳幼児の育児は24時間365日休みなし。それに対して時給1,673円というお金が本来支払われると仮定したら、1日4万円の報酬額が発生することになります。大変な作業を休みなく続けているということは、確かにこうして金額化することでわかりやすくなるかもしれません。
しかし「金額」として表現している時点で、世の中の多くの方が「お金」や「社会的立場」にとらわれてしまっていることがはっきりするのではないでしょうか。
家事育児は、お金などに換算できるほど安価なものではありません
そもそも、家事育児という仕事はお金に換算できるほど、価値の低いものではありません。お金はただの紙や金属ですし、ただの数字やデータです。
家事は、人間が日々快適に暮らすための作業で、生きることそのものとも考えることができます。
育児は、新しい人間がこの世に生まれ、自力で生活できるようになるまで親や養育者がサポートすること。つまり育児も、生きることそのものです。
家事も育児も、多くの人が「大変なもの」「面倒なもの」と感じてしまっています。しかし、どれもこの世の中に何よりも欠かせない生きる「源」であり、生きることそのものなわけですね。
家事や育児を時給換算するということには、その頑張りを「お金」で表すことによって、母親や女性の権威を証明したいという心理が隠されています。
また、母親業や主婦業を軽視する人が多いため「お金に換算したらこれくらいの価値があるのですよ」と示すような効果があるのかもしれません。
男性側としても、女性がどのくらいの労力と精神力を家事育児に費やしているのか、数字を見ればわかると感じるのかもしれませんね。
数字にしないと納得できない、お金に換算しないと理解されない……というこの現状は、現代ではまだまだ「お金」という目に見える物質的なものが権威をもっているということの、確固たる証拠になっているように感じます。
「育児を時給に換算したら〇〇円になるんですよ!」と声を大にして言ってしまえるのは、人の命を育むことよりも、お金の方が権威をもっているとハッキリ口にしているのと何ら変わらないということになります。
「それだけの価値がある」のではなく「そんなものに置き換えられないほどの価値がある」
家事育児を時給換算することにはまったく意味がないか、もしくは本当に大切なことを見失う結果にもなりかねないと考えています。
それは「時給〇〇円という、それだけの価値がある」のではなく、物質や数字などに置き換えることができないほど大きな価値のあることだからです。
しかし多くの人は「これだけの価値があるのだ」と、まるで「この紋所が目に入らぬか!」と叫ぶ水戸黄門のような陳家なやりとりをしてしまっているのです。
そこには「夫が稼いでくる給料なんかよりも、もっと高いんだ」という競争心や「これだけの価値があるのだからもっと敬うべきだし協力すべき」という強制も含まれているように感じます。
筆者も女性ですし、働きながら2児の子育てをしている身。もちろん、そんな気持ちになるのも十分わかるのですが、このような考え方をすると余計にむなしくなるだけでなく、子どもたちや自分たちがしている生活そのものがとても薄っぺらい価値になってしまうように思うのです。
家事育児の時給換算という考えから見えてくる、現代人の間違った価値観

家事育児を時給換算することには意味がないどころか、このような考え方をすることで逆に子どもの価値を低く感じてしまいます。
ここには、私たち現代人にまだまだ強く根差してしまっている、間違った古い価値観が刻まれているのではないでしょうか。
「お金」や「社会的地位」に権威があるという錯覚
家事や育児を時給に換算して考えることには「お金」や「社会的地位」に権威があるという考えが眠っているように思えてなりません。
女性は「これだけのお金をもらえるべきなのに」と考える。
男性は「これだけのお金が支払われるべきなら、認めよう」と考える。
子どもという一人の人間が巣立つまで、サポートするということはビジネスや仕事ではないはずです。まだまだ「お金を稼ぐ」「社会的な地位・名誉」「物質を所有する」ということに、人生の重要度を置いてしまっているのではないでしょうか。
お金がなくても、楽しいと思えること、有意義だと思えることをやりたいという人が、今の時代年々増え始めていますよね。少なくとも「育児」に関しては、時給換算をし始めた時点で、子どもを育てることに喜びや生きがいを感じられなくなってしまっている状態です。
何のために子どもを設けるのか、この子はこれからどう生きていくのか……という原点に立ち返るようなことを、忘れてしまっているのかもしれません。
男性が「育児を手伝う」「育児に参加する」という錯覚

家事育児の大変さを時給換算する考え方には、やはり男性が家事育児を「手伝う」という考え方や、育児に「参加する」という考え方がついてきます。
男性は、外でお金をもらってくるという仕事を担い、女性は家庭や子供を守るという「まったく別軸のことを並行して進めよう」という構図があるためです。
女性の担っている役割をお金に換算することによって
「それだけの価値があるのなら、男性も負担をしなければ」
というような考え方になってしまう。この考え方は、さらなる男女の軋轢を生むだけではないでしょうか。
仕事も、家事も、育児も、家族プロジェクトのいち工数である
女性も男性も同じように役割を分担し、家族としてのシステムをうまく機能させようという取り組みが必要です。
男は仕事、女は家事育児……という別軸のプロジェクトを並行して進めるのではなく、家族という大きなプロジェクトを全員で進める。その中で、可能なこと・不可能なことを分けたり、足りない部分を補い合ったりしながら、それぞれの意思を尊重しつつ試行錯誤して進めるのが家族プロジェクトです。

まだまだ「父親の稼ぎの中で家族が回っている」「父親が働いているから家族が成り立っている」という思い込みが拭えない人は多いはずです。
しかし、本来家族は「家族全員で成り立っているもの」です。今までの時代はお金や社会的地位が権威をもっている時代背景や社会的風潮が強かったため、上図の左側のようなイメージになっていたのではないでしょうか。
現代では、男性も女性も分け隔てなく活躍できる社会になりつつあります。これだけ男女平等・均等が当たり前になりはじめているのに、家庭や子育て、女性のキャリア問題になるとそれが上手くいかないのはなぜか?
それは、そこにどうしても乗り越えられない生物学的な役割があり、それに基づいた性別役割分業という考えがあったためです。
子どもを身ごもることも、産むことも、授乳をすることも、女性にしかできないことですよね。
生物学的な部分だけは分担することができない。しかし、それ以外のところはすべて、家族システムを回すための一工数として考え、分担していくことが「機能的な家族」といえるのではないでしょうか。
上図の右側のように、大きな家族プロジェクトという括りの中に、男性も女性も子どもも、家事も育児もお金も同じ立ち位置で存在している。そして、それをその都度、できる人が、やりやすい形で分担していく。
このようなイメージを持ってみると、納得がいきやすいのでは。男性が育児に対して「参加」「手伝い」などという感覚で取り組むのは、家族プロジェクトとしては方向性が間違ってしまうということにも、気づくのではないでしょうか。
家族はお金の中に存在しているのではありません。家庭の中に「生活する上で必要なお金」という枠組みがあるだけです。お金には、それほどの重要度はない。そしてお金を稼ぐということ自体には、特別な社会的地位も権威もないということなのです。
家事育児はお金に換えられない、地位や権威を計るものでもない

家事育児は、お金に換えられない。そんなことを、誰もが頭ではわかっているはずですよね。
しかし、どうしてもまだまだ男女の隔たりを感じたり、競争に走ってしまっていることも多いです。そうではなく、男女はそれぞれの性差を活かして、ひとつのプロジェクトを作り上げていくと考えるべきではないでしょうか。
子育ては決してひとりではできません。
子育ては子どもの面倒を見るということでも、片手間でできることでもない。人間を育て上げていくことだということを念頭に置けば、おのずと「どうやってチームプロジェクトを回していくか?」という視点に立ちやすいのではないでしょうか。