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子どもを可愛いと思えない私は、たくさんの子どもに心を育ててもらった

私はずっと、子どもが苦手でした。

街で見かける赤ちゃんや子どもを可愛いと感じたことがあまりなかったし、誰かのうちに子どもが産まれても「可愛いと言おう」として頑張っていました。

自分より小さな存在に対して、無条件に可愛いと思えることがなかったのです。

嫌いと思うほどではないのですが「子どもというものが、どういう生き物なのかわからない」「どう扱っていいかわからない」という感覚が強かった。

今でも、見知らぬ子どもを「視覚的に可愛い」と感じることは、正直言ってあまりありません。友人や知人の子どもに対して、とりあえず「可愛い」と言うことにも、とても抵抗を感じてしまう神経質なところがあります。

しかしずっと「この感覚は何なのだろう」と考えていました。自分の子どもが生まれてからもずっと「なぜ自分は、子どもが好きではないのか」と問い続けていたんです。

そこで実感したのは、本当の「可愛い」は、「可愛いという言葉のイメージ」とは程遠いところにあるということでした。

子どもが可愛いのは「小さいから」でも「おもしろおかしいことを言うから」でもなかった

私は自分の子どもを産んだとき「可愛い」とは思いませんでした。

「思った以上に小さいな」「予想していた顔とずいぶん違うんだな」などと、物理的な感想ばかり浮かんで、可愛いや愛おしいという感覚を得にくかったのです。「可愛いと思おう」としたり「愛しいと思わなきゃ」と頑張ったりしているところがありました。

ただただ「何かここに、生き物がいる」という感覚しかもてませんでした。

育児が始まってからも、あまり可愛いという実感がなかったように思います。話しかけても反応のない子どもに対して「おはよう!朝だよ!」と声をかけることすら、最初は強い抵抗がありました。

ただ、赤ちゃんには積極的に話しかけるほうがいいということは知っていたので「朝だよ」「ミルクか」「オムツ変えるね」などと、小声で申告するような感じでした。

確かに当時から、どこかに可愛いという気持ちや意識があったからこそ、育児をこなせていたのは事実だと思います。

しかし、若く未熟で、毎日がいっぱいいっぱいだった私は「今日一日を無事に過ごせること」「生活をスムーズに進めること」ばかり考えていたかもしれません。

そんな私は、あるとき「子どもが可愛いという気持ちは、こういうことを指すのではないか」と気づいた瞬間がありました。

子どもに強い興味と感心をもったとき「可愛い」という感情が生まれた

長男が2歳くらいの頃、子育て支援センターに通っていたときのことです。

当時は「孤立する育児は子どもや母親にとってよくないので、無理にでも活動的になって外に出るべきである」という考えや「家の中にいることで自分自身が堕落していく怖さ」から、外に出る機会を多くしていました。

子育て支援センターには、毎日たくさんの親子が来ます。見慣れない場所に怯えて泣いている子もいれば、おもちゃの取り合いで喧嘩になっている子もいる。

走り回って、他の子が遊んでいるおもちゃを奪い去る子。

母親の影に隠れたまま、おもちゃに興味を示す余裕を持てない子。

見知らぬ私にたくさんのことを話しかけてくる子。

そして、その母親や父親たち。

本当に数えきれないくらいの親子を見ました。

その中で「問題行動を起こす子どもに対しての風当たりの強さ」を感じていたのです。

毎日足繁く子育て支援センターに通っていたので、自然と顔なじみの人や軽く雑談をする間柄になるお母さんができはじめたのですね。

すると、やはり人のおもちゃをとったり、手を出したり、走り回ったり、わざといじわると思えるような行動をとる子どもの話題になる頻度は多かった。

「あの子よく会うけど、本当に困るよね」

「親が全然見てないもんね」

「育て方の問題もあると思う」

周りのお母さんたちが、そんな話題をはじめるようになります。

私も確かに、困るなと感じることがなかったわけではありませんし、会話に加わっていました。しかし私の息子も、お友達に自我を向けることが多かったし、私自身、周囲に謝ったり、子どもに注意ばかりしている方の母親でもありました。

すると自然に「なぜなんだろう?」「どのような違いや背景があるのだろう?」ということばかりが、気になって気になって仕方なくなりました。

私はそのとき、生まれて初めて

じーんと染み渡るように「子どもは可愛い」と感じたのです。自分の子どもに対してではなく、子どもという「存在」が可愛いと、はじめて思えた瞬間でした。

私は最初、自分の息子に対し「興味や関心」をもつことでいっぱいいっぱいだったのです。可愛いと感じる余裕などなかったのかもしれません。

もしくは「他人に心から関心を向ける」ということが、それまではあまりなかったのかもしれません。

息子とその友だちが、私の心を育ててくれた

息子が小学生に上がってからは、子どもに興味関心を深めていく速度が急加速していきました。

小学生になると子どもは行動範囲を広げ、私の家に長男の友だちがわんさかやってくるようになったからです。

最近の家庭では、知らないうちの子どもは家に上げないようにしたり、家の中で遊ばせず外に行くよう促す家庭も多いです。

しかし私は、自分自身が放課後に友達と遊んだ経験に乏しかったこともあって「どんなふうに遊んでいるのか、どんなやり取りしているのか」をよく見たい、という目的で我が家に集まることを許可していました。

中には暴れまわる子もいたし、「お腹空いた」などとやんわりおやつを要求してくる子どももいます。体調が悪いのに無理して遊びにきて、我が家のリビングで盛大に嘔吐した子もいました。

そのたびに私は疲れ果てるし、愕然とします。

元々子どもの相手が苦手ですし、内向的なので騒々しいのは息子だけで十分というような母親です。息子にもときどき「今日はおうちに呼ばないでね」と言ったりしました。

時期によっては、パタリと誰も家にやってこなくなることもあり「最近静かだな、平和だな」なんて思うことも。

でもその反面で「子どもが自由に遊びまわり、やり取りをする姿」ほど、興味深いものはないとも思っていました。

さっきまでワイワイしていたかと思えば、突然怒って帰ってしまう子。それにつられてみんながぞろぞろ帰ってしまう様子。取り残されて泣いている息子。

おやつを持参した子が、その場のみんなに分配する様子。ほんの少ししか入っていない駄菓子を、みんなで一粒ずつ食べる子どもたち。

大人から見ると何にもおもしろくないことで、何かのスイッチが入ったように笑い転げて止まらなくなっている子どもたち。それを延々と繰り返した後、どんな風に興奮が冷めていくのかどうか。

5時になっても、まだまだゲームに夢中な子。スッと気持ちを切り替えて、帰り支度をする子ども。帰りたがらない友達を、引っ張って連れて帰ろうとする子。

本当に、ひとりひとりの子どもに色濃く目立つ特色や個性があって、バランスを取り合ってなんとか回っている仕組み。バランスを崩す構図。波長がぴたりと合わさる瞬間などが、台所から見えるのです。

誰がいいとか、誰が悪いとかではありません。次々と移り変わっていく映画のように見え、テレビドラマなんかよりも何十倍もおもしろいと思っていました。

私は今でも、子どもたちの中に入って話をしたり、おもてなしをしたりすることはどうしても苦手です。遠くから見ていることしかできない日もありますし、あいさつ以外に顔を合わせられない日もあります。

でも、子どもたちの会話を聞いたり、様子を遠くから見ているのはやっぱり楽しくて、おもしろくて、興味深い。自分の子どもを含め、うちに来てくれる子どもたちに感謝する気持ちでいっぱいなのです。

わずかな関りでも、子どもの感性がわかる

次第に私は、子どもたちをずっと注意深く見ていなくても、その子がどんな光るものを持っているかどうか、感じられるようになってきました。

次男が幼稚園に行くようになり、私は朝夕2回、園の中に入ります。

私は幼稚園児に対しても人見知りをするので、知らない子にあいさつするのも緊張するし、元気よくあいさつしてくれてもすっとんきょうな返しをしてしまったりと、ダメダメっぷりは治りません。

でも、そんな私にも近づいてきてくれる子どもたちがいます。

「だれのおかあさんですか?」と聞いてくる子ども。保護者がたくさん出入りする園の中、背景の一部でしかない私に「誰なんだろう?」と注意を向け「どの子とどのお母さんがセットなのか」を知りたい、記憶したい子もいるのだと感じます。

「今日はお顔がちがうね?」と、私がお化粧をサボっていることに気づく子。「今日はお化粧してないの、朝寝坊しちゃったんだよ」と返しました。すると次の日その子は「今日はお寝坊しなかったんだね」と言いました。なんてよく見て、よく考えているのだろうと感心するほかありません。

園では登園後、教室での支度が済んだ子から外遊びに出かけることになっています。教室に息子を送り届けると、準備が済んだ子どもが私に駆け寄ってきて、話しかけてくれます。

「ねぇ、今日ふじさんみた?ふじさんがね、すごいんだよ!なんかおかしいの。赤と青と黒とか……いろんないろになっちゃってるの。なんかヘンだけど、すごいの!」

私は忙しさにかまけて気にも留めていなかったので、建物を出たらすぐに山の方に目をやりました。朝日が当たる角度の加減で、富士山の色が複数のコントラストになっていました。あぁ、すごいなぁって朝からじんとしてしまうんです。

あるときは、息子にお手紙をくれた女の子に、登園時にたまたま出会うことができました。「お手紙ありがとう」と、お礼を言ってみました。するとその女の子は、同年代の子たちよりも少し発音の聞き取りにくい口調で「どういたしまして!」といって、私の手を握って歩き始めました。私はその子と手をつないで、園庭に降りていくのです。

たった5分10分のできごと。それが、毎日毎日積み重なって、私の心を癒していく気がします。きっと、園で子どもたちを見ている先生も同じ感覚になることがあるのかもしれないと、先生への思いにまで変化していきます。

たったこれだけの関りで、わかることや深く感じられる感性があるのです。毎日一緒に生活してくださっている先生は、どれほどの喜びや葛藤、切なさを経験しているのだろうと想像してしまいます。

子どもが可愛いという感情は「興味や関心をもてること」だった

私はずっと長い間、知りませんでした。

子どもを「可愛い」と感じるのは、相手に対しての興味や関心が強まるときであるということを。

ずっと、子どもというものは「小さいから」「か弱いから」「突拍子もないことを言うから」「おちゃらけて歌ったり踊ったりするから」可愛いのだろうと思っていたのです。

しかし私は、子どもの視覚的な要素対して「可愛い」という言葉が結びつきませんでした。

可愛いという感情はこういうものなのかとわかる瞬間や、じんわりと広がる気持ちは、私を変えてくれたと思います。

親として立派になるとか、いい母親になれたとか、そういう意味ではなくて「私に豊かさをくれた」という感じがします。

可愛いとは「可能な」「愛」と書きますよね。愛を可能にするということなんだなぁと、しみじみ思ってしまいます。

愛の反対は無関心、という誰もが知っている言葉にもすべてがつながり、辻褄が合うように思います。だからこそ、子どもへ可愛さや愛は、すべて「関心を寄せること」「注意を向けること」「興味をもってみること」なのだと実感しているのです。

視覚的な要素や、子どもの言葉尻に注意を向けていても何も見えてこないし、何も感じられないのかもしれません。

子どもの言葉や行動の奥には何があるのか、子どもが今何を感じ、どう生きているのかを、私は知りたいです。

「人とは違う子」についてどうしてなんだろう考えていたことから始まり、それは次第に「どうなっているんだろう」という仕組み、そして「何を感じているんだろう」というところまで、ようやくたどり着くことができたという気がします。

なんだか知らないうちに、私は子どもが大好きで大好きでたまらなくなっていたようです。

子どもは小さい存在ではなく、とてもつもなく大きな存在であると感じています。

すべての子どもが、その光る感性をもったまま生きていける世の中になってほしいと、心から思っています。

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この記事を監修している人

SFR代表理事:鶯千恭子(おうちきょうこ)

精神保健福祉士●保健師●養護教諭1種●心理EMDRトレ他

保育士や子育て中のお母さんたちへの講演実績多数。

「心育て」「人格形成」のスペシャリスト。

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