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人が持っている特性は、レッテルを貼り生きる世界を分断するためにあるのではない

どんな特性も個性も気質も、すべて「生かす」ためにある

Photo by Tim Marshall on Unsplash

この世には完璧な人などいません。人はみな、得意不得意、向き不向き、育つそれぞれの環境、性質や気質を持って生きています。「マイノリティ(少数派)」「マジョリティ(多数派)」という言葉があるのも、「健常者」「障がい者」という言葉があるのも、本当は”住む世界が違う”と振り分け、分断するためにあるわけではないのです。

近年では、繊細で敏感な気質「HSP」なども大きく注目されました。「繊細さん」と呼ばれ、「普通の人より傷つきやすい」「普通の人より生きづらい」というような表現がされ、結局のところ当てはまらない人からすれば「まあ、私とは違う人だわ」と線引きをされつつある印象を受けます。

しかしこうした特性や気質、持って生まれたもの、そのすべてが意味を持ち、生かされるためにそこにあるのだと、多くの人が気づいていないように思えるのです。

人のカテゴリは「分類」ではなく、理解を深める「玄関口」

心の病や発達障がい、気質なども含め、なぜ「診断」をつけたり「名前」をつけたりするのでしょう。それは、「自分を知るため」「大切な人を知るため」の玄関口であると私は考えます。

人は賢く、言葉を持って表現したり解説したりすることができます。ただ、なんとなく語るだけでは、理解は深まらないのですね。

名前がついてはじめてそのことに気付いたり、調べてみたりする、それが一般的でしょう。

その証拠に、自分でも自分の事に気が付かない人が多くいます。

「上手く言えないけど、生きているのが疲れるんだ」「いつも私はここで失敗してしまう」と、得体の知れないモヤモヤを抱え続けていても、自己理解はなかなか深まっていきません。

自分を知ること、自分の性質や今自分を苦しめているものが何なのかを知る、それは決して「自分はだめだ」というレッテルを貼るために使ってはいけません。

「では、自分が持つ素晴らしい部分を生かしていくには?」と理解や実践をしていくための第一歩として使うものなのです。

心理学や発達の分類、心の病の診断も、自分や大切な人が持つ唯一無二の武器を明らかにするためにあるのだと、そう思わずにはいられません。

このような考え方を知らないまま、何も気づかず、また気づいてもらえずに時が流れ、大人になっていく人がたくさんいます。そして偏りのある人は周囲から「迷惑ばかりかける愛のない人」「はみ出し者」「厄介者」「変わっている人」などと誤解を受け、自尊心を傷つけられたまま片付けられてしまう。とても悲しいことです。 

発達に偏りがある人たちからの恩恵

特異的な性質や通常では考えられない集中力を持つ人たちによって、化学や開発は進歩していきます。圧倒的な芸術や作品も、どこか偏りのある人の才能によって生み出されていることが多いと感じます。ある種のこわだりや熱心さが生んだいくつもの産物です。

たとえば、今私たちの暮らしを豊かにしている身の回りにある物は、はるか昔のとてつもない発想力と研究する才能を持った人達が生み出したものです。

しかし、その人物像といえば、類いまれな才能を持っていたけれども人との関係を築くのがとても苦手で寡黙であったとか、周囲に人を寄せ付けない頑固者であったなどと言われたりします。

中には「生涯これしか食べなかった」なんて、驚いてしまうような生活面での偏りがあった人もいます。

何か飛びぬけたものを持っている人たちのアンバランスさは、「完璧な人などいない」ということの象徴ではないでしょうか。また、繊細な人たち(HSP)や消極的な人たちは、リスク回避や丁寧な作業を得意とし、確認や調和を大事にするため社内で必ず必要な存在と言えます。チームワークにおけるバランスも、すべてが積極的で行動力のあるキレ者ばかりでもうまくいかないのです。

困った人がいたら堂々と意見できる人、人の話をとことん聞くことができる控え目で傾聴力の高い人、感情的に涙を流して思いを伝える人、気弱で無口だけれど見守ってくれる静かな人。

どんな人も完璧ではありませんが、それぞれの性質や気質を生かせるからこそ、ここに存在するのです。人間に「これが見本だ」「これが普通の姿だ」というマニュアルを作ることこそ、そもそも、無意味であると言えるでしょう。

比較的バランスの取れた人からの恩恵

偏りのある人や障がい者に対しての理解を深めようという動きがある一方で、また違った分断が起こっている側面も無視できません。普通の枠に入れない人が普通の枠の中の人を批判したり、線引きをしたりすることも、今の世の中ではよく見受けられます。

いわゆる「健常」「普通」と呼ばれる人たちは、発達の凸凹をフォローする架け橋になれる存在です。偏りのある人たちは、こうしたバランスのいい人に理解され、少しずつ生きやすい環境を整えてもらうことができます。

特性の強い人ばかりでは、社会は混乱するでしょう。内向的で慎重派な人ばかりでは、世界は発展しません。また、好奇心旺盛で思い立ったらすぐ行動に移す人ばかりでも、社会はうまく回らないでしょう。

もちろん一般的に「普通の人」と呼ばれる人たちだって、何も葛藤せず努力もせず気楽に生きているわけではありません。

自分なりに社会へ適応するための策を探したり、身につけたり、辿り着いたりしてきたという人も多いはずです。そうやってバランスをうまく保てる人がいるからこそ、この社会は成り立っているのは確かな事実です

男性と女性がいたり、若いエネルギッシュな人々がいたり、知性や経験の豊富な年配層がいたり、さまざまな職業、趣味がある……という基本的な属性と、気質や発達の偏りはほとんど同じなのではないでしょうか。

要するにどちらも必要であり、どちらも役割。

すべてがグラデーションで、自分の立場をどう使うか?自分のこのポジションでどう生きるか?をそれぞれが考えてくだけでいいのです。

一般的な社会の中で生きられる人も重要な役割を担っているし、突出した特性をもっている人もまた重要な役割を担って生まれてきている。

とてもシンプルなことですが、この複雑な社会の中ではときどき忘れたり、まったく気づけなかったりすることも多いのかもしれません。

すべての人が「自分はこれでいい」と心から感じ、役割を認識することで、相手にもまた「あなたはそれでいいし、あなたにはあなたの役割がある」と思えるようになる。「自分は自分でいい」と思えることが、お互いに恩恵を与え合って生きている実感に直結していくのです。

一人一人が「生きづらい」と感じなければ、何も問題はない

Photo by Melissa Askew on Unsplash

結局のところ、多くの人が他人と比較することなく「自分はこれでいいのだ」と思えれば何の問題もないという、シンプルな結論に行きつきます。

「生きづらい」という感覚は、何かの枠にハマろうとすることや、自分を捻じ曲げてでも社会に適応しようとすること、周囲に足並みを揃えてビクビクすること、批判を受けやすい社会であることなどからきていますよね。

みんながみんな「これが自分である」という風に思えていれば、批判も非難も起こらない。

ただ「これが自分である」と思うためには、自分という人間のでき方や特徴などを深く知って、自分自身が納得していなければならないのです。

自分のことがしっかり見えていない、理解できていないと、当然社会に足並みを揃えることでしか安心感を得られません。しかし、社会の状況は目まぐるしく変わっていくし、その都度壁にぶち当たります。

自分がどう生きるか、自分をどう取り扱っていけばいいのか。

そして、大切な人を理解するにはどうしたらよいのか、ということにまずしっかり向き合っていく必要があるのです。

自分や他者を理解するためには、情報や知識を入れていく必要があります。そこで、「分類」を使って道筋を描いていくわけです。

一人の人間を知るためのヒントとして使うのが「病名」や「気質」「発達の偏り」「心理学」などといった分野です。特性は、人を分類してカテゴライズし、社会を分断させるためではない。これは何度でも根気よく伝えていくべきことだと思っています。

すべては、人間という難しく不思議な存在をどう紐解いていくかという「玄関口」「糸口」「入口」として設けられた目次のようなものです。

人間はグラデーションであることを理解してほしい

Photo by Christopher Burns on Unsplash

分類されることに執着したり、その分類の中でさらにまた争ったり批判したりといったことには何の意味もありません。

現代人は、何よりもまず「自分」を研究する必要があります。自分を理解しはじめて、自ずと周囲の人への理解が深まっていくのです。大切な人を知りたい、理解したいという「関心」も生まれてきます。

そして、人間への理解が深まれば自ずと「社会と自分がどんな関係性にあるか」「自分はどの役割をになっているのか」ということも見えるようになります。

普通と、そうでないか。障がいと健常。男と女。多数派と少数派。

そんな風に分断することなく、すべてはグラデーションであると考えること。

そして、そのすべてがただそこに存在することによって、美しいコントラストを描いた「社会」ができるというイメージを、多くの人が持てるようになってほしいと、私たちは感じています。